鍾 紹京(しょう しょうきょう、生没年不詳)は、唐代の書家・官僚。字は可大。本貫は虔州贛県。
経歴
鍾法遵(字は従道)の子として生まれた。はじめ司農寺録事となった。書道に巧みで鳳閣に宿直し、武則天のときに明堂の門額や九鼎の銘、および諸宮殿の門榜などを書いた。景龍年間、宮苑総監となった。唐隆元年(710年)、臨淄郡王李隆基が韋皇后を殺害するのにあたって、紹京は戸奴や丁夫を率いて従った。その夜のうちに銀青光禄大夫・中書侍郎に任じられ、国政の機密に参与した。翌日、中書令に進み、光禄大夫を加えられ、越国公に封じられた。朝廷で任用され、賞罰をほしいままにしたため、当時の人に憎まれた。薛稷の上奏により、戸部尚書に転じ、蜀州刺史として出された。
先天元年(712年)、玄宗(李隆基)が即位すると、紹京は長安に召還されて再び戸部尚書に任じられ、太子詹事に転じた。ときに姚崇に憎まれ、怨言があったと上奏されて、綿州刺史に左遷された。事件に連座して、さらに琰川県尉に左遷され、爵位や実封も全て削られた。まもなくさらに温州別駕に転じた。開元15年(727年)、入朝して玄宗の前で涙を流し、その日のうちに銀青光禄大夫・右諭徳に任じられた。長らくを経て、少詹事に転じた。八十数歳で死去した。紹京は書画の古跡を好み、王羲之・王献之や褚遂良の書数百巻を収集していた。建中元年(780年)、重ねて太子太傅の位を追贈された。
子女
- 鍾嘉璧(晋州長史)
- 鍾嘉諤(太子典膳郎、山陰県公)
- 鍾嘉偉(左領軍衛長史)
脚注
伝記資料
- 『旧唐書』巻97 列伝第47
- 『新唐書』巻121 列伝第46
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00320-6。




