石谷 訓啓(いしたに くにひろ、1942年9月28日 - )は、島根県大田市出身の元プロ野球選手。
経歴
大田高校では1959年、2年生の時にエース中島広喜(阪神)を擁し、右翼手として夏の甲子園に出場。1回戦で倉敷工の杉本喜久雄に抑えられ大敗。
1961年に大毎オリオンズへ入団。1963年には一軍に定着し、7月には中堅手、一番打者に抜擢される。シーズン後半は失速するが、33試合に先発出場を果たした。同年はイースタン・リーグで打率.381を記録して首位打者を獲得している。しかしその後は故障もあって出場機会に恵まれず、1967年限りで引退。
引退後はデパートに什器をレンタルする株式会社山元に就職し、常務まで勤めた。
2015年1月に学生野球資格を回復した。2017年5月には大田市に帰郷し、大田高校で指導者となっている。
詳細情報
年度別打撃成績
- 大毎(毎日大映オリオンズ)は、1964年に東京(東京オリオンズ)に球団名を変更
背番号
- 44 (1961年 - 1967年)
脚注
関連項目
- 島根県出身の人物一覧
- 千葉ロッテマリーンズの選手一覧
外部リンク
- 個人年度別成績 石谷訓啓 - NPB.jp 日本野球機構
![市谷 聡啓[レッドジャーニー]](https://dm25qh0q2b215.cloudfront.net/static/images/speaker/5161/sp_ichitanitoshihito.png)



