西海郡(せいかい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。前漢末および隋代の後期に、現在の青海省海北チベット族自治州一帯に設置された。

概要

4年(前漢の元始4年)、王莽が中郎将の平憲に多額の金を持たせて塞外に派遣し、羌に内属するよう誘わせると、羌の豪族の良願らが帰順を申し出た。そこで王莽は良願らの献じた地を西海郡とするよう上奏し、裁可された。6年(居摂元年)、西羌の龐恬・傅幡らが西海太守の程永を襲撃し、程永が敗走した。王莽は程永を処刑し、護羌校尉の竇況を派遣して西羌を討たせた。翌年、竇況らが西羌を撃破して、西海郡の統治を恢復した。

後漢の初年には、西海郡は廃止され、金城郡に編入されていたものと思われる。

102年(永元14年)、西海郡の旧郡治が修復され、金城西部都尉が駐在することとされた。。

609年(隋の大業5年)6月、吐谷渾の国都であった伏俟城に西海郡が置かれた。宣徳・威定の2県を管轄した。天下の罪人が流され、兵卒として配備され、屯田を開墾させた。食糧を運ばせて給与しようとしたが、道程が遠く隔てられ、物資が略奪に遭ったこともあり、死亡する者が相次いだ。

脚注


秦と漢の最大版図の大きさの比較と武帝による匈奴討伐と西域への領土拡大、秦と漢帝国はどちらの方が大きかったのか?② TANTANの雑学と哲学の小部屋

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漢帝国の西域について 苔の雑記